大きいことはいいことか(後編)

3 資源の公平分配の視点から

  • CM「私作る人、僕食べる人」では資源管理はできない

「私作る人、僕食べる人」とは、わずか1か月で放送中止となった昭和50年のインスタントラーメンのテレビCMです。40年近く前の事なので覚えていらっしゃる人はもう少ないでしょう。まず、女の子が「私作る人」と言い、次に男の子が「僕食べる人」と言う他愛ない普通のCMでした。ところが、女性運動団体から「性別役割分業をより定着させるもの」と抗議があり放送中止となったものです。そのことを知った時に、なるほどそう言われれば、そうだよなーと変に納得したので記憶に残ったCMでした。

ところが、その後資源管理を担当するようになって、このCMに似た状況に出くわし、たびたびこれを思い出すことがありました。どうしてかを説明します。

例えば、水産庁が資源管理のCMを作成しテレビで放送したとします。まず漁師Aが出てきて「私保護する人」、次に漁師Bが出てきて「僕獲る人」と言ったらどうでしょう。マスコミから「魚を獲り尽くす日本人」「魚が食卓から消える」などを刷り込まれている一般国民は、普通に「そうだそうだ、乱獲やめよ」と受け止めると思います。

しかし、漁業者の反応はどうでしょう。「なんだ!このCMは、なんで保護する漁師と獲る漁師が別の人物なのだ」と女性運動団体とおなじように抗議するでしよう。あたりまえです。日本はもちろん世界の漁業を見回しても、他人のために資源を保護する漁師は聞いたことがありません。資源保護は自分の利益になるから痛みがあってもやるのです。そういう説明を聞けば、一般国民の皆さんも、一方的に漁師Aに保護だけさせるではなく、AもBも共に保護するし漁獲もする、これが正しいとご理解いただけると思います。

では、少し問題を複雑にしてみましょう。

Aの操業する海域には小型魚しかいません。Bの操業海域には大型魚しかいません。「私(漁師A)小型魚を保護する人、僕(漁師B)大型魚を獲る人」というCMだったら一般国民はどう思うでしょうか。「小型魚を獲るAはけしからん、抗議など受け付けるな」となるでしょう。一方、漁業者の反応は二分し、小型魚を獲るAは引き続き抗議しても、大型魚を獲るBは「大変結構なCMです、どんどん保護してください」となるでしょう。

皆さんはどう考えますか。私は抗議するAに味方します。その理由は

「どんな形態で資源を利用しているにせよ、それが地域に根付いた漁業であれば、それを認めること」

「小型魚保護は小型魚を獲るために、大型魚の保護は大型魚を獲るために行う」

のが、このような場合にあっては正しいと思うからです。

なぜなら、資源管理の前提にはそれに参加する漁業者間で、増えた資源の公平分配の原則がないと成り立たないと考えるからです。

一方「魚を大きくすれば漁業全体としては儲かる、それが消費者の利益にもなる、小さい魚の漁獲を認めるな!」とするのが多くの人の意見でしょう。

それを十分承知の上で、私が、そのような考えに至ったかきっかけとなった三河湾のトラフグ小型魚漁獲問題を以下で説明したいと思います。

 

  • 伊勢湾・三河湾資源回復計画

私が直接かかわった資源回復計画のひとつに「伊勢湾・三河湾小型機船底びき網漁業対象種資源回復計画(平成14年8月13日公表)」があります。この資源回復計画(以下「計画」)では、小型底引き網漁業(以下「小底」)の主要対象魚種のトラフグ、アナゴ、シャコの3魚種の資源回復を図るため、「小型魚の保護による資源の増大等を図ることとし、水揚げ制限等による漁獲努力量の削減措置を行うとともに、種苗放流による資源の積極的培養や漁場環境の保全措置を行う」こととしました。

すでに私が矛盾したことを言っていると気が付かれた方がいると思います。この計画は一言でいえば、「小型魚を獲らないこと」が最大の資源増大手段となっているのに、それを否定することを認めるとはいったい何事だ!と。

 

  • 三河湾の漁業者の質問にどう答えるか

話が少し込み入ってくるので、まず次のトラフグ資源と漁業の関係の基礎知識を頭に入れていただきたいと思います。(以下、水産庁の資源評価票より要約引用)

1)分布・回遊

トラフグ伊勢・三河湾系群は紀伊半島東岸から駿河湾沿岸域を主な生息海域とした一つの系群

 

(2)年齢・成長

成長は早く、満1 歳で全長26cm、体重0.3kg、満2 歳で全長40cm、体重1.4kg、満3 歳で全長48cm、体重2.5kg 。寿命は6 年程度。

(3)成熟・産卵・生育・漁獲

産卵期は4~5 月、成熟年齢は雄で2 歳、雌で3 歳。産卵場は伊勢湾口の外海周辺。

春に生まれたふ化仔魚は、伊勢・三河湾内に輸送され、その秋には伊勢・三河湾内で操業する小底により漁獲0 歳の冬季~春季にかけて伊勢・三河湾外に移動し、外海で操業する「小底」により漁獲。

その後、1歳の秋から主に遠州灘から熊野灘にかけてのふぐはえ縄漁業の漁獲対象となる。

以上、頭に入れていただいた上で、三河湾の漁業者から以下のような質問をされたら、あなたはどう答えますか。

(三河湾の漁業者からの質問)

私ら三河湾の小底漁業者からトラフグを見れば、ほかで生まれうちの庭先に入ってきて餌を食べ、そろそろ大きくなったと思ったら「ハイさよなら」と伊勢湾や外湾に出ていき、大きくなって戻ることは二度とない。小型魚しかいない私らの庭先で小型魚を保護すれば、私らにどういうメリットがあるのか。

この漁業実態を知った時、私は正直困り果てました。今までの漁業者説得の際の常套句「保護した魚は、必ずあなたたちのもとに大きくなって戻ってきます」が通用しないからです。小型魚の漁獲を規制しても三河湾の漁業者にはメリットがありません。小型魚といっても高級魚のトラフグは重要な収入源です。それを他人のためにやめてくださいとは言えません。これは、伊勢湾の「小底」でも同じ構図でしたが、水深が深い分水温の低下が遅く、トラフグが湾外に移動するまでの滞留期間が長く、三河湾よりは大き目のトラフグ(といってもその多くは小型魚)が漁獲できるチャンスが少しは多くありました。

そこで、種々協議の結果以下のような規制で決着しました。

  • 三河湾・伊勢湾ともに25センチメートル以下のトラフグは水揚げしない。(トラフグは強い魚で、船上から生きたまま再放流ができる)
  • この規制の適用期間は、三河湾では9月の1か月間、伊勢湾では9,10月の2か月間とする。

 

つまり、三河湾の漁業者にも25センチメートルの規制サイズは守っていただくが、その規制期間を短くすることで妥協していただいたのです。その際の三河湾漁業者のメリットは「より小さな小型魚を保護することで、少し大きな小型魚がもっと多く獲れるようになる」、端的に言えば「小型魚を保護し小型魚を増やす」というなんとも苦しい説明でした。

  • 理想の解決方策を模索してみた

漁業全体としてトラフグの漁獲金額を増やすには、思い切って三河湾・伊勢湾での小型魚漁獲をやめて、外湾ではえ縄漁業で大型魚のみを獲るのが理想です。しかし、それではラーメンのCMになります。そこで、その解決策として、全体の漁獲金額が増えその恩恵にあずかるはえ縄漁業から、犠牲となる「小底」にその恩恵の一部を転嫁し、小底のマイナスを補てんできれば、理屈上は合意できます。「私お金をもらって作る人、僕お金を払って食べる人」これでいこうと考えた私は、それを内々漁業者に打診しました。

ところが意外にも「小底」の方から否定的な回答が出てきました。その理由は、操業日数も水揚げに占めるトラフグのウエイトも個々の漁業者間で異なり、その金の分配方法で必ずもめ調整が付かない、というものでした。しかし、これは私の個人的受け止め方ですが、同じ漁業者からお金をもらうということに漁業者の自負心が許さないという健全な感覚があったと思います。漁業者の満足感は、苦労して獲った魚が売れて得られるものです。現場で漁業者とともに働くと、言葉で説明できませんが、その心情がよく理解できます。

 

  • 放流事業で還元できないか

では「小底」漁業者が納得する形でのメリット還元ができないかと、着目したのが「放流事業による還元方式」でした。トラフグ伊勢・三河湾系群においては、大規模なトラフグの放流事業が行われてきました。その理由は、この資源は「親が多いと子が多い」が通用しない、ほとんど環境で加入量が決定される典型的な資源です。まさに、2月10日の当ブログ「気象学になくて、資源学にあるもの」でご紹介した「桜本理論:R (加入)= a・SSB(親魚量)・exp(環境要因)」でしか説明のつかないものです。参考までに水産庁の資源評価票にある親魚と加入の相関グラフを以下に引用します。

トラフグ

 

それにしても、すごいグラフですね。素人の方にこれ見てどう思いますかと聞いてみたい気がします。「親魚量が多い方が、加入尾数が少ないですね」と常識の逆のコメントを言われても全く不思議ではないでしょう。資源が減れば「乱獲だー、TACが多すぎる」と、「パブロフの犬」状態になっている方々には、これをみて症状を緩和してほしいと思います。

このようにトラフグは、加入が安定しない資源であるため、静岡、愛知、三重の3県では、はえ縄漁業者もお金を拠出し、共同で人工種苗放流を行い、加入の悪い時の資源の底支えをしています。そこで、お金ではなくこの放流事業で還元できないかと考えました。

まず、小型魚をすべて再放流した場合の資源増大効果と人工種苗放流による資源増大効果を比較し、併せて伊勢湾・三河湾での小型魚の水揚げ金額と放流事業経費とを比較したところ、同じ資源増大効果を得ようとすると、小型魚再放流による減少額より放流事業経費の方が多いことがわかりました。

もちろん加入あっての小型魚保護ですので、加入を安定させるためには、放流事業は必ず継続しなければなりませんが、トラフグ放流経費の一部を水揚げ減少金額分に相当する「小底」漁業者にとって重要な「ヨシエビ」の人工種苗放流経費に充てれば還元できる。

「私(小底)トラフグ小型魚を保護し増えたヨシエビを獲る人、僕(はえ縄)トラフグ大型魚を獲りヨシエビを放流する人」これぞ理想の解決策と思ったのですが、結局実を結びませんでした。当ブログの初回でお話ししたような理由で、資源管理担当から外されたためですが、このアイデアが実現すれば、資源管理の効率性と資源の公平分配が異なる魚種を通じて調整できた全国初の事例になると思っていただけに残念でした。

 

  • 資源管理に漁業者が隷属してはならない

今回のテーマ「大きいことはいいことか」に話を戻します。魚を大きくして獲るこのこと自体は、考え方として間違っていません。しかし、何事にもメリット・デメリットの両面があるように、それがいかなる場面でも正しいとするには問題があります。「大きくして獲る」を追求すると、当然漁業のあり方を変えねばならず、それによる漁業者間の受益性に変化が生じ始めます。

特に、地理的条件や経営規模の理由から、小型魚から大型魚への操業転換ができない漁業者にあっては、収益の減少、場合にあってはゼロとなります。かといって、それを拒否すると「乱獲野郎」「消費者の敵」と罵倒されかねないという窮地に立たされます。

例えば、今社会的注目を浴びている太平洋クロマグロの資源管理施策を例に挙げましょう。その施策は簡単に言えば「小型魚獲るな、産卵魚獲るな」でしょう。仮に、全生活史にわたり全回遊経路において同じ漁業種類(漁業者)が漁獲しているならそれほど問題はないでしょう。小型魚保護による減収が、その後の大型魚を獲る増収で報われますので。

しかし、私自身がヨコワ釣りに行ったのでわかりますが、小さな沿岸漁船にヨコワを獲らず、遠くの海で100キロの大型マグロを釣ってきなさいと言っても、それは無理です。また、産卵魚が回遊してくる日本海を操業海域とする巻き網漁船に、どこかで産卵後のマグロを巻いてこいといってもおそらく無理と思います。

何が言いたいかというと、「大きいことはいいことだ」で象徴される利益優先の資源管理では、最も効率的な資源利用形態に資源が集中し、その他の資源利用形態は効率性の低いものとして排除され、それまでの資源分配の慣行が崩れるということです。これでは漁業者のための資源管理ではなく、資源管理に漁業者が隷属するという本末転倒の結果を招くと思います。

 

  • 日本EEZ内ではクロマグロが獲れなくなるかも

「大きいことはいいことだ」を最高の価値観とし、最も利益があがる方式で資源は漁獲されるべきという市場原理主義的発想からすれば、「小型魚は獲らないこと」「産卵魚も獲らないこと」は必須の要件であり、仮にクロマグロをITQの対象にすれば市場取引を通じ、そのような操業をしている効率の悪い漁業者は、排除されるとの理屈になると思います。

そうすると、困ったことが起きるかもしれません。太平洋クロマグロは、小型魚と産卵魚のいずれもその多くが日本のEEZ内に分布し、漁獲されていることから、グローバル的見地から見れば、「日本のEEZ内ではクロマグロを獲るな」となるかもしれません。メキシコ政府提供の「私(日本人)マグロを保護する人、墨(メキシコ人)マグロを獲る人」というCMが世界で流れる日もそう遠くないかも。こういうふうに立場を変えてみると「大きいことはいいことだ」とは、漁業者のおかれた条件によっては、恐ろしい結果をもたらしかねないことをご理解いただけるのではないでしょうか。

なお、太平洋クロマグロの管理で苦労している水産庁に、なんら責任を持てない私が、余計なことをいうなと怒られますが、今回の規制は、大西洋クロマグロ(東系群)の規制を参考にしているように見えます。しかし、水産庁の資源評価票にある東系群の親魚資源量の経年変化の急激な増加のグラフを見て、どうも首をかしげたくなります。

そこある説明文「近年の規制により明らかに漁獲量及び漁獲死亡が減少したこと」と「最近年の全ての資源量指数が上昇傾向であること」が事実としても、それを原因と結果として結びつけてよいのでしょうか。この東系群のRPS(再生産成功率)のデータが見当たらないので、私の卓越年級群資源回復寄与説に根拠があるわけではありませんが、この急激な資源増大は、環境改善が大きく影響しているような気がします。もちろんその際に必要な種火を残すための規制強化の必要性までを、否定するものではありませんが。

 

  • リカードの貿易論の欠陥との類似性

「資源小国の日本は貿易立国として生きていかねばならない」「貿易は国を豊かにする」と教えられ、そう信じてきました。ところが、貿易の自由化がどんどん進められているにもかかわらず、国民生活は貧乏になる一方です。例えば、勤労者世帯の1か月間の可処分所得は、1997年:497千円のピークから2012年:424千円と、ひと月7万円、年間84万円も減少しています。(総務省統計)

「自由貿易が進むほど貧しくなる」のはなぜか、この素朴な疑問から関心をもつと、教科書にあるリカードの貿易のメリットとは、国内で失業が生じないという前提の上に成り立っているのがわかりました。イギリスで生産効率の高い毛織物を作り、ポルトガルで生産効率の高いワインを作り、互いに交換(貿易)すると、それぞれを自国で作る場合より、ともにより豊かになるというのは感覚的にわかります。が、素人はここで必ず「じゃー、イギリスでワインを作っている人はどうなるの、ポルトガルで毛織物を作っている人はどうなるの」と心配します。

しかし、経済学者というのは、どうも単純化した理論を確立するために、都合の悪い現実から目を背ける傾向があるのでしょうか。この素人の心配に対しては「全体としては豊かになる」で済まされているようです。しかし、現実としてイギリスのワイン農家が、都会に移住し不慣れな毛織物工場で働けるのでしょうか。ポルトガルの毛織物工場の労働者が、田舎に移住し不慣れなワインづくりができるのでしょうか。できるわけがありませんし、それで多少所得が増えても今までより幸せになれるとも思いません。また、イギリスは良いとしても、ポルトガルは未来永劫工業国になれず、農業国のままでいなければならないのでしょうか。

このように、貿易には国内産業の均衡ある経済発展を阻害する欠陥があると思います。

「全体としては豊かになる」で片づけられ、人間は経済効率のため住所・職業すら変えなければならない単なる歯車のような存在なのでしょうか。確かに、日本人は高度経済成長期の集団就職や出稼ぎにより所得が増大しましたが、それが本来の経済発展の正しい姿とは思いません。経済効率に人間が隷属させられ、故郷を離れ、家族から離れ、生きるための糧を得ていかねばならないのでは、本末転倒ではないかと思います。

これは「大きいことはいいことだ」という利益優先・効率性優先の資源・漁業管理のもつ欠陥とよく似ていると思います。すでに上で述べことですが、

利益優先の資源管理では、最も効率的な資源利用形態に資源が集中し、その他の資源利用形態は効率性の低いものとして排除され、それまでの資源分配の慣行が崩れる

は、

効率性優先の経済施策では、効率性の高い産業・企業が輸出で富を増やし、その他の効率性の低い産業・企業は輸入によって排除され、国内における産業間格差が増大する

と大変似ていると思います。

日本の農林水産業が衰退した最大の原因は、リカードの貿易理論の欠陥のためと言えないでしょうか。

よって、資源管理において、効率性優先の経済政策の物まねをして「全体としては生産金額が高まる」という理屈だけで、小型魚、産卵魚を漁獲する漁業者を排除するという、同じ誤りはしてはならないと思います。「資源は保護しろ、低効率性の漁業者は保護するな」では、効率的漁業のみに富が集中し、共生を伝統としてきた日本型漁業に格差社会が生じかねません。

 

このような考え方は、常に自由貿易促進派から「消費者の利益を考えていない」「日本の消費者は非効率な国内産業のため高いものをかわされている」と批判を受けます。しかし、経済効率優先の国際分業推進施策こそが、国内の雇用を減少させ、上に挙げたように消費者(勤労者世帯)の可処分所得の大幅な減少を招いたのではないでしょうか。自由貿易により自分だけ格差拡大の上の方に押し上げられた彼らに「消費者利益など、どの口が言うか」と、頬をつねってやりたくなります。

ご参考までに、トマ・ピケティの「21世紀の資本」(p499)に、容認される格差の考え方が、1789年フランス人権宣言第1条第2文「社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない」の解釈としてありましたのでご紹介しておきたいと思います。

平等性が基本であり、格差が認められるのは、それが「共同の利益」に基づく場合のみ、というのだ。すると「共同の利益」を定義する作業が残る。(中略)ひとつの解釈として考えられるのは、社会的不平等が容認できるのは、それが万人の利益になるとき、特にもっとも恵まれない社会集団の利益にかなうときだけ、というものだ。したがって、基本的な人権や物質的な利得は、最も権利や機会の少ない人の利益にかなうかぎり、できるだけ万人に拡大すべきだということになる。

[

「競争主義」「自己責任」という強者の論理が蔓延し、かってない格差が広がっている今こそ、騒がしくなってきた日本国憲法改正の際には、ぜひ「格差是正条項」を盛り込むべきではないかと思います。

 

  • まとめると

以上、3回にわたった「大きいことはいいことか」シリーズで言いたかったことは、資源の利用形態との関係で、それが常に「いいこと」とは限らず、おそらく以下のイメージで言えば菱形に近いものが理想ではないかということです。

 

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氷山物語その4

 

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「偶然の一枚」とはこの写真のことでしょうか。もう一度南極海に行って同じ写真を撮りたいとおもってもまず無理でしょう。シー・シェパードの船が攻撃してきそうなときには、その余裕はありませんが、そうでない時に氷山が現れるとパチリ・パチリとシャッターを切りパソコンに取り込んでいました。あるとき、取り込んだ写真を整理していると「2重の輪」とでもネーミングしたいこの一枚に出会いました。氷山が波で削られできた空洞の輪の中に、その氷山で砕け散った波の輪が偶然にも写っていたのです。それがなければ削除されてしまった一枚でした。

 

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